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回想録

回想録 Reminiscences

ラマナの最初の西洋人帰依者は英国人のF.H.ハンフリーズでした。彼は1911年にインドに来て、ヴェロールで警察官として勤めていました。すでに神秘学に精通していた彼はマハートマー(偉大な魂、賢者)を探していました。彼のテルグ語の教師は彼をガナパティ・シャーストリに紹介しました。そしてシャーストリが彼をラマナのもとに連れて行ったのです。彼はラマナから強烈な印象を受けました。はじめて賢者を訪問したときの事が『インターナショナル・サイキック・ガゼット』の記事に書かれています。

シャーストリは私に「マハルシの瞳を見つめなさい。目をそむけてはなりません」と言いました。およそ半時間、私は彼の眼を見つめていました。深い黙想の内にあるその瞳はけっして変わることがありませんでした。私が感じたのは、彼の身体は人間のものではないということです。それは神の道具、神の威光を放ちながら座ったまま微動だにしない死体…私自身の感情は言葉を超えたものでした。彼の存在は威厳と自己制御、そして揺るぎない信念を表していました。彼を描写することは不可能です。

彼は何度も訪問を繰り返し、その印象を英国の友人に手紙に書いて送りました。そしてそれは上記の『インターナショナル・サイキック・ガゼット』の記事として出版されたのでした。その記事の中に彼はこう書き記しています。「彼の微笑ほど美しいものを想像することはできません」。「彼の臨在の中にいることは、何という変化をもたらすことでしょう!」

良い人ばかりがアーシュラムを訪れたわけではありませんでした。ときには悪いサードゥさえ現れました。1924年に、アーシュラムは二度も強盗に襲われています。二度目のとき、アーシュラムの中に価値あるものがないことが分かると、彼らはマハルシを棒で叩きさえしました。帰依者の一人が泥棒を捕まえて処罰しようと、賢者の許可を求めました。賢者はこう言って彼を思いとどめたのでした。「彼らには彼らのダルマがあり、私たちには私たちのダルマがあります。耐え忍ぶことが私たちの義務なのです。彼らを邪魔せずにおきましょう」。強盗の一味の一人がラマナの左足大腿部を棒で殴ったとき、ラマナは言いました。「もしそれで満足しないなら、反対側の足も打ちなさい」。強盗が去った後に、帰依者の一人が殴られたことを心配して尋ねました。賢者はタミル語で poosaiという「礼拝」と「殴打」の語呂を合わせて、「私も礼拝を受けたよ」と笑いながら答えたのでした。

誰を傷つけることもない純粋な精神が賢者と彼の周辺に漂っていました。動物や鳥たちでさえ彼と友達になったのです。彼は人間に対するのと同じ思いやりを動物にも与えました。彼はけっして「それ」とは呼ばず,「彼」あるいは「彼女」と呼びました。鳥やリスたちはよく彼の周りに巣を造ったものです。牛も犬もサルも、アーシュラムを聖域と見なしていました。彼らは知性的に振る舞いました。特に牛のラクシミーはとても知性的でした。ラマナは彼らの性質や生活を深く理解していました。そしていつも彼らがじゅうぶんな食事を与えられているかどうかを気遣っていました。彼らに死期が訪れたとき、正式な儀式とともに遺骸はアーシュラムの敷地内に埋葬されたのです。

アーシュラムでの生活は順調に流れていました。時の流れとともに訪問者の数も増える一方で、短期滞在の人もいれば、長期滞在の人もいました。アーシュラムの規模は拡張し続け、新たな部門が加わりました。牛小屋ができ、出版部門や『ヴェーダ』の学問のための学校も設立されました。そして母の寺院では礼拝が定期的に行われるようになっていきました。ラマナはほとんどのときをオールド・ホールのソファの上で過ごしました。彼の周りで起こるすべての出来事の沈黙の観照者として。しかし彼が活動的ではなかったというわけではありません。彼は数枚の葉っぱを縫い合わせてお皿を作ったり、調理をしたり、本の校正をしたり、新聞や本に眼を通したり、受け取った手紙の返信の言葉を提案するといった仕事をしていました。それでも、彼自身がそれらの活動に巻き込まれていなかったことは明確です。彼の言葉は沈黙から生まれ、彼の行動は静寂から生まれたものだったのです。

彼を旅に誘い出そうとする招待が何度もありました。しかしラマナはけっしてティルヴァンナーマライを離れませんでした。後年にはアーシュラムの外に出たことさえありませんでした。来る日も来る日も、人々は彼の前に座りました。そしてそのほとんどが沈黙の内に過ぎていきました。ときには誰かが質問をし、ときには彼も答えました。彼の前に座り、彼の輝く瞳に見入ることは偉大な体験だったのです。多くの人が、時間が止まり、言葉を超えた静寂と平和に包まれた体験をしました。

ラマナがティルヴァンナーマライに到着して50年経った日を祝う大規模な祝祭が行なわれました。これを機に記事や詩が書かれ、『五十周年記念本』(A Golden Jubilee Souvenir)が編纂されました。

1947年、彼の健康に陰りが見えはじめました。彼はまだ70歳にもなっていなかったのに、それよりも年老いて見えました。

1948年の終わり頃、彼の左腕の肘下に小さな瘤(こぶ)が現れました。それが大きくなったとき、アーシュラムの医師が手術で切除しました。しかし1ヶ月の後、それはふたたび現れたのでした。今回はマドラスから外科医がやってきて手術をしました。それでもその傷口は適切に治癒せず、腫瘍はすぐにふたたび成長し、さらに大きくなっていったのです。さらなる検診の結果、それは極端な苦痛を伴う骨肉腫という癌だと診断されたのでした。医師たちは癌に冒された所より少し上からの腕の切断を提案しました。ラマナは微笑んで答えました。「心配する必要はありません。身体自体がひとつの病気なのです。自然な終焉を迎えさせればいいのです。なぜ切断するのですか? ただ包帯を巻いておけばそれで十分です」。さらに2度の手術が行われましたが、その度ごとに腫瘍は現れたのでした。現地特産の薬草やホメオパシーも試されました。しかし治療は無駄に終わりました。賢者はまったく気にせず、苦痛に対しても無関心なままでした。彼は病気が身体を蝕んでいくのを傍観者として眺めていたのです。それにもかかわらず、彼の瞳はいままでになく輝きを増し、彼の恩寵はすべての生きとし生けるものへと注がれました。

人の群れが押し寄せるようになりました。ラマナはすべての人が彼のダルシャンを受けるべきだと主張しました。帰依者たちは賢者が超自然能力で自分の身体を治してくださいと真剣に願いました。ラマナは慈悲心から嘆き苦しむ帰依者たちに、「バガヴァーンはこの身体ではない」ということを想い起こさせました。「彼らはこの身体をバガヴァーンだと見なして彼が苦しんでいると考えています。何と残念なことでしょう! 彼らはバガヴァーンが彼らを残して去ってしまうと悲しんでいるのです。彼がどこへ行けるというのでしょうか? いったいどうやって?」

1950年4月14日の夜、賢者は訪れた帰依者たちにダルシャンを与えました。アーシュラムにいた人たちは皆最後のときが近づいていることを知っていたのです。彼らは座って「アルナーチャラシヴァ」を繰り返すアルナーチャラへの賛歌を歌いはじめました。賢者が身体を起こすようにと従者に頼むと、彼の瞳が開き、輝きはじめました。そこには言い表すことのできないやさしさをたたえた微笑がありました。そして彼の瞳の外側のふちから、ひと雫(しずく)の至福の涙がこぼれ落ちました。もう一つの深い呼吸、そして……。そこにはもがきや苦しみといった死の兆候は何もありませんでした。ただ次の呼吸が起こらなかっただけです。

まさにその瞬間、巨大な流れ星のようなものが輝く尾を引きながらゆっくりと空を横切って、聖なる丘アルナーチャラの頂上の背後へと消えていきました。それはインドの各地で見られ、ボンベイ(ムンバイ)からでさえ見た人がいたということです。