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教え

ラマナは沈黙の師と呼ばれています。しかし沈黙の人と呼ぶほうが適切でしょう。なぜなら、「教え」は教師と弟子という二元性を暗示するからです。一方、ラマナは「純粋な非二元性の本質」です。彼の最も直接的で深遠な教えは沈黙を通して伝達されました。
しかしながら、話されてもいない言葉を聞き、書かれてもいない言葉を直接体験できる人がどれほどいるでしょうか? 帰依者や訪問者たちは質問をしました。そして限りない慈悲心からバガヴァーンは彼自身の独特な方法で答えたのでした。以下はその抜粋です。

 

 

幸福                                                                            

すべての生きとし生けるものは、悲しみのない幸福をいつも願っています。それと同時に、誰もが自分自身を最も愛しています。この愛の原因はただ幸福だけです。それゆえ、その幸福は自己の中にあるに違いありません。さらに、その幸福は毎日想念のない眠りの中ですべての人によって体験されています。その自然な幸福を得るためには、人は自分自身を知らなければなりません。そのためには、「私は誰か?」という真我探究が最も重要な方法です。

意識

存在あるいは意識が唯一の実在です。意識に目覚めを加えたものが目覚めと呼ばれ、意識に眠りを加えたものが眠りと呼ばれ、意識に夢を加えたものが夢見と呼ばれます。意識とはその上をあらゆる画像が現れては消えてゆくスクリーンです。スクリーンが実在であって、画像はその上で移り変わるただの影でしかないのです。

心とは真我に内在する驚くべき力です。身体の中に「私」として湧き起こるもの、それが心です。微細な心が脳と感覚を通って現れるとき、粗大な名前や形が認識されます。それがハートの中にとどまるとき、名前や形は消え去ります。もし心がハートの中にとどまれば、「私」あるいはすべての想念の源である自我は消え去り、実在、真我、永遠の「私」だけが輝きだすでしょう。自我の跡形が完全に消え去ったところ、それが真我です。

私は誰か?

すべての想念の源は「私」という想念です。心は「私は誰か?」と問う真我探究によってのみ溶け去ります。「私は誰か?」という想念は他のすべての想念を破壊して、ついにはそれ自身をも殺します。もし他の想念が起こったなら、それを追いかけることをやめ、この想念は誰に起こったのかと探究しなければなりません。どれほど多くの想念が起ころうともかまいません。一つ一つの想念が起こるたびに、油断なく、この想念は誰に起こったのかと問わなければなりません。その答えは「私に」でしょう。「私は誰か?」と探究すれば、心はそれが現れ出た源へと戻るでしょう。現われ出た想念はやがて消え去るでしょう。このように修練をさらに深く続けていけば、源にとどまろうとする心の力は強まるでしょう。

明け渡し

明け渡しを成就するには二つの方法があります。一つは「私」の源を見て、その源の中に溶け入ることです。もう一つは、自分自身の力では、私はまったく無力であり、神のみが全能であること、そして彼に我が身を完全に投げだす以外に救われる道はないと感じることです。この方法によって、「神のみが存在し、自我は存在しない」という確信は徐々に深まっていくでしょう。どちらの道も同じ目的地にあなたを導きます。完全な明け渡しとは、ジュニャーナ(真我の知識)あるいは解脱のもうひとつの名前なのです。

つの状態 目覚め、夢見、眠り

目覚めている間は長く、夢を見ている間は短い。これ以外に目覚めと夢見の違いはありません。どちらも心が創り出したものです。トゥリーヤと呼ばれる私たちの真の状態は、目覚め、夢見、眠りの状態を超えているのです。

恩寵とグル

「グルは必要ない」と私が言ったことは一度もありません。しかしグルが人間の姿をしている必要はないのです。はじめに、人は自分自身を劣っていると考えます。そして優れた全知全能の神がいて、個人と世界の運命をコントロールしていると考えます。こうして人は神を礼拝し、バクタ(帰依者)となります。彼がある段階に達して実現にふさわしくなったとき、その神はグルとして現れ、彼を導きます。そのグルはただ「神はあなたの内側にいる。内面に潜り込み、実現しなさい」と告げるためにあなたのもとに現れたのです。神、グル、そして真我は同じものなのです。

真我実現

実現と呼ばれる状態は、ただ単に「自分自身として在ること」です。何かを知ることでもなければ、何かに成ることでもありません。もし実現したなら、その人は唯一存在する「それ」として在り、常に唯一存在してきたものとして在るでしょう。その境地を言い表すことはできません。ただ「それ」として在ることができるだけです。もちろん、私たちには他に言葉がないため、真我実現について漠然と語るのです。

存在する「それ」、それは静寂です。私たちに必要なことは、ただ静かに在ることです。平和は私たちの本性です。私たちはそれを台無しにしてしまいます。必要なのは、それを台無しにするのをやめることなのです。

ハート                                                            

ハートの洞窟の内奥で、ブラフマンは「私―私」として一人輝いています。真我探求によって、あるいは呼吸とともに心を制御することで、深く沈潜してハートに達しなさい。そうすればあなたは真我の内に安住するでしょう。

放棄

「グリハスタ(家庭をもつ者)が解脱を求めながら生きていくにはどうすればいいのでしょうか?」と問われて:

なぜ自分をグリハスタと思いなすのですか? たとえあなたがサンニャーシーとなっても、今度は自分がサンニャーシーであるという想いにとらわれてしまうでしょう。あなたが家庭での生活を続けようと、それを棄てて森林へ行こうと、心はあなたにつきまとうでしょう。自我がその想念の源です。自我は身体と世界をつくり出し、あなたがグリハスタであると考えさせます。あなたが家を棄てても、それはグリハスタという想いがサンニャーシーという想いに変わり、家庭の環境が森林という環境に代わるだけのことでしょう。しかし、精神的障害は変わらずそこにあるでしょう。新しい環境のなかでは、障害が勢いを増すことすらあるのです。それゆえ、環境を変えても何の助けにもなりません。唯一の障害は心です。家にいようと森林にいようと、心こそが克服されなければならないのです。それが森林の中でできるのなら、どうして家のなかでできないはずがあるでしょう? 環境を変える必要はありません。環境がどうあれ、あなたは今、努力することができるのです。環境があなたの望み通りに変わることはけっしてないでしょう。

運命と自由意志

運命と自由意志は常に存在しています。運命とは過去の行為の結果であり、それは身体に関わっています。それに沿うように身体に任せればよいのです。なぜあなたがそれを心配するのですか? なぜあなたがそれに注意を払わなければならないのでしょう? 身体が存続するかぎり、運命と自由意志も続いていくでしょう。しかしジュニャーナ(真我の知識)はその両方を超越しています。真我は知識と無知を超えているため、何が起ころうとも、それは過去の行為の結果、神の意志、そしてその他の要因によって起こるのです。

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運命を克服する方法は二つしかありません。一つは誰にとってこの運命があるのかと探究し、束縛されているのは真我ではなく自我だけであり、自我は存在しないということを発見することです。もう一つの方法は、自分の無力さを悟り、常に「『私』は存在しません、ただあなただけです。ああ、主よ」と言い、「私」と「私のもの」という感覚を放棄して神の望むままにすべてをゆだね、完全に明け渡すことによって自我を殺すことです。真我実現の道であれバクティの道であれ、運命を克服するには自我を完全に消し去ることが必要なのです。

ジュニャーニ        

ジュニャーニは今ここで、生きている間に解脱に達した人です。いつ、どこで、どのように彼が身体を去るかは問題ではありません。あるジュニャーニは苦しんでいるかのように見え、別のジュニャーニはサマーディの中に没入しているかもしれません。また別のジュニャーニは死のときに姿を消してしまうかも知れないのです。しかし彼らのジュニャーナに関しては何の違いもありません。そのような苦しみは、傍観者には現実のように見えても、ジュニャーニにとってはただの現れに過ぎません。なぜなら、彼は真我と身体との誤った自己同一化を超越したからです。ジュニャーニは自分を身体だとは見なしません。彼は身体を見ることさえありません。彼は身体の中にただ真我だけを見ているのです。

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