母 アラガンマル  Mother Alagammal

ラマナの母、アラガンマルはマナマドゥライに帰った後、長男を失いました。2年後、彼女の三男ナーガスンダラムは、短い間ティルヴァンナーマライを訪れています。彼女もヴァーラナーシーとティルパティへの巡礼の旅の帰りに立ち寄っています。このとき、彼女はチフスにかかり、数週間激しく苦しみました。ラマナは深い心遣いとともに彼女の世話をしました。そして無事に回復するにいたったのです。彼は彼女の病気が治るようにとアルナーチャラに懇願するタミル語の賛歌まで作っています。

以下はその賛歌の第1節目です。

おお、主よ!

輪廻転生という病を癒す薬草の丘よ!

我が母の高熱を鎮めるのはあなたの務めです

彼はまた、「母が神のヴィジョンを得ますように、そして俗世間から離れますように」ともアルナーチャラに祈っています。その二つの祈りがかなえられたことは言うまでもありません。アラガンマルは無事に回復し、マナマドゥライに帰っていきました。彼女がふたたびティルヴァンナーマライに戻ってきたとき、彼女の三男であるナーガスンダラムは妻を亡くし、息子を後に置いて母の後に従ったのでした。

母が来たのは1916年のはじめでした。彼女は残りの人生をラマナと共に過ごそうと決意していました。母が来てしばらくすると、ラマナはヴィルーパークシャ洞窟よりも少し高い所にあるスカンダシュラマムに移り住みました。ここで母は霊的な生活を送りながら、厳しい試練を受けることになるのです。彼女はオレンジ色の僧衣を纏い、アーシュラムのキッチンの責任者となりました。ナーガスンダラムもまたサンニャーシーとなり、ニランジャナーナンダと名前を変えたのでした。ラマナの帰依者の間では、彼はチンナ・スワミ(若いスワミ)として知られています。

1920年、母は年老いた上に病気なって衰弱していました。ラマナは彼女を優しくいたわり、幾晩も眠らずに彼女の看病をしたのでした。1922年5月19日、ヴァイサカの月のバフラナヴァミの日に、母の身体は埋葬されるために丘を下っていきました。場所は南側のパーリー・ティールタムとダクシナームールティ寺院の間が選ばれました。葬式の間、ラマナは立ったまま静かに見守っていました。ニランジャナーナンダ・スワミはお墓の近くに暮しはじめました。スカンダシュラマムにとどまっていたラマナも毎日お墓を訪れていましたが、6ヵ月後には彼もお墓に来て暮しはじめたのでした。彼は後に言っています。「それは私自身の意思ではありませんでした。神の意志に従ったのです」と。この場所がシュリー・ラマナアシュラマムの起源となったところです。マトゥルブーテーシュワラ寺院は母のサマーディ(墓)を中心として建設された寺院です。それは1949年に完成しました。歳月を重ねるにつれて、アーシュラムは着実に拡張していきました。人々はインド各地からだけではなく、世界各地から賢者を訪れ、霊的探究に関する指導を受けたのです。