聖なる丘での暮らし  Residing at the Holy Hill

Bhagavan sitting on rock with stick

ラマナが最初にティルヴァンナーマライで暮しはじめた場所は大寺院の中でした。はじめの数週間は千本柱廊のホールにとどまりました。しかし彼が瞑想の内に座ると、いたずらな子供たちが石を投げつけて彼を困らせました。そこで彼はパーターラ・リンガムと呼ばれる地下室の隅に隠れました。数日の間はそこで誰にも邪魔されることなく、深い没我の境地に入っていました。蟻や害虫や小動物に大腿部を食われても気づかずにサマーディに入ったままだったのです。しかし、いたずらな少年たちは早くもこの隠れ家を発見し、彼に石や陶器の壷の破片を投げつけたのでした。

当時、ティルヴァンナーマライにはセシャドリという年配のスワミがいました。何も知らない人は、彼のことを狂人だと見なしていました。彼は若いスワミを守ろうとして立ちはだかり、少年たちを追い払いました。ついに彼が神の帰依者たちによって地下室からかつぎ出されるときがきました。そして彼自身は気づくこともないままスブラマニヤ神の神殿付近に運ばれたのでした。その頃から、ラマナには何人かの人たちが彼の世話をするようになりました。彼が過ごした場所は度々移り変わりました。庭園の中、林の中、神殿の中などが、自ら話すことのないスワミを守る場所として選ばれたのです。彼自身が沈黙の誓いを立てたわけではありません。ただ彼には話そうとする気がまったく起こらなかったのです。ときには、誰かが彼に対して『ヨーガ・ヴァーシシュタ』や『カイヴァリャ・ナヴァニータム』のような聖典を読み上げることもありました。

ティルヴァンナーマライに到着して6ヶ月もしないうちに、ラマナはグルムールタムと呼ばれる神殿に移り住みました。それはその場所を管理していたタンビラーンスワミという人の誠実な懇願によるものでした。時が経ち、ラマナの名声が広がるにつれて、巡礼者や観光に来た人たちが彼を訪れるようになっていきます。グルムールタムに暮して1年ほど経った頃、ブラフマナ・スワミとして知られるようになっていた彼はマンゴーの果樹園に移り住みました。彼を捜していた父方の叔父ネリアッパ・アイヤールが彼を見つけ出したのはこの場所でした。ネリアッパ・アイヤールはマナマドゥライの町で二級弁護士をしていました。ヴェンカタラーマンがティルヴァンナーマライでサードゥとして崇拝されているということを友人から聞いて彼を訪れたのです。彼は最善を尽くしてラマナをマナマドゥライに連れて帰ろうとしましたが、若い聖者は訪問者に対して何の反応も示さず、何の関心も見せませんでした。ネリアッパ・アイヤールは落胆してマナマドゥライに帰っていきました。しかし彼はラマナの母親であるアラガンマルにその知らせを伝えたのでした。母は長男のナーガスワミを連れてティルヴァンナーマライへと向いました。ラマナはそのときアルナーチャラの東側の山麓にあるパヴァラクンドゥル寺院に滞在していました。

眼に涙を浮かべながら、アラガンマルはラマナに家に一緒に戻るよう懇願しました。しかし賢者にとってもはや帰るべきところはなかったのです。涙にむせぶ哀れな母の姿さえ、彼の心を動かすことはできませんでした。彼はただ沈黙し、静かに座ったままでした。帰依者の一人が数日続いた母親の苦悶を見て、少なくとも何か彼女に書いてあげてくださいとラマナに頼みました。賢者は一枚の紙にまったく非個人的な言葉で次のように書きました。

「神は個々人のプラーラブダ・カルマ(過去生での行為における徳と罪のバランスから割り出された、今生で果たされなければならない運命)に従って魂の運命を支配しています。何であれ起こらない運命にあることは、いかにあなたが試みても起こらないでしょう。何であれ起こる運命にあることは、いかにあなたが避けようとしても起こるでしょう。これは確実です。それゆえ、最善の策は沈黙にとどまることです」

こうして深く落胆した母は、胸に重荷をかかえながらマナマドゥライへと帰っていったのです。この出来事の後、ラマナはアルナーチャラの丘を登り、ヴィルーパークシャと呼ばれる洞窟に暮しはじめました。この洞窟は、その昔ヴィルーパークシャという名の聖者が暮らし、そこに埋葬されたところでした。ここにも人々は集まりました。その中には数人の誠実な真理の探究者がいました。探究者たちは彼に霊的体験に関する質問をしたり、聖典についての解説を彼に求めたりするようになりました。ラマナはときおりその答えや説明を書き記しました。当時、彼が眼にした本の中には、シャンカラの『ヴィヴェーカーチューダーマニ』があります。彼は後にその本をタミル語の散文体に書き直しています。彼を訪れる人々の中には学問の素養のない素朴な村人もいました。彼らもラマナから慰めや霊的教えを授かったのです。そのような人の中にエーチャンマルがいました。彼女は夫と息子と娘を次々に失って失意のどん底にいたのです。しかし運命は彼女をラマナの臨在のもとへと導いたのでした。彼女は毎日スワミを訪れ、スワミと、彼とともに暮らす帰依者たちのために食事を運び続けたのでした。

1903年、ガナパティ・シャーストリとして知られる偉大なサンスクリットの学者かつ苦行者がティルヴァンナーマライを訪れました。彼は21歳にしてサンスクリット語をマスターし、『プラーナ』や『ヴェーダ』に深く精通していました。またいくつもの聖地で厳しい苦行をして、北インドで開かれた権威ある学者や詩人の集会でカーヴャカンタ(喉に詩を持つ人)という尊称を授かった人でした。彼の父親は「聖母に対する秘密の礼拝儀式」を彼に伝授しました。そして彼は古代インドの聖典によって示された道を誠実に追求してきたのです。ガナパティはすでにヴィルーパークシャ洞窟に暮していたラマナを数回訪れていました。しかし1907年、彼は霊的修練についての疑問に襲われ悩んでいたのです。丘を駆け上がり、洞窟に独り座っているラマナの姿を見ると、彼は大地に全身をひれ伏して賢者を礼拝するなりこう言いました。「読むべき聖典は読み尽くしました。『ヴェーダーンタ・シャーストラ』さえ完全に理解しています。私は心ゆくまでジャパもしました。それにもかかわらず、まだ私はタパス(苦行)とは何なのかを知らないのです。それゆえ、私はあなたの御足元に救いを求めます。どうかタパスの本性についてあなたの光を与えてください」

数分間、ラマナは彼に恩寵に満ちた眼差(まなざ)しを向けると、こう答えました。

「もし『私』という想念がどこから起こるのかを見つめれば、心は『それ』の中に融け去るでしょう。それがタパスです。マントラが復唱されるとき、もしそのマントラの音が起こってくる源を見つめるならば、心は「それ」の中に融け去るでしょう。それがタパスなのです」

詩人であり学者であった彼には、これこそ人類にとって新しい霊的な道が開かれた啓示だと感じられました。そして賢者の恩寵に包まれている自分を感じていました。それ以来、彼はラマナがそれまで呼ばれていたブラフマナ・スワミという名前に替わってバガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシと呼ばれるべきだと宣言したのでした。ガナパティはグルに完全に自己を明け渡しました。彼はサンスクリット語によるラマナを讃える賛歌を作詩し、ラマナの教えを解説した『ラマナ・ギーター』を著作しています。その日をくぎりに、若い賢者はラマナ・マハルシ、あるいはマハルシと呼ばれ、彼の帰依者たちからはただバガヴァーンと呼ばれるようになったのでした。