質問者 バガヴァーン、私はあなたにお目にかかる幸運を得ました。私の目はあなたを見る喜びに恵まれ、私の耳はあなたのお声を聴く喜びに恵まれました。私は人が望むことのできるすべてを手に入れる祝福を授かりました。

彼女の声は涙に咽んでいた。懸命に気を取り直してから、ゆっくりと言葉を進めた。

 

質問者 欲しい物はすべて手に入れました。人が望むことのできるすべてを…… けれども…… けれども…… 私には…… 私には…… 心の安らぎがないのです。何かがそれを妨げています。おそらくは私の運命なのでしょう……。

数分間の沈黙が続き、それからマハルシはいつもの優しい口調で語り始めた。

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Sri Bhagavan descending the Hill

マハルシ わかりました。語られるべきことは語られました。さて、運命とは何でしょうか? 運命などというものは存在しないのです。明け渡しなさい。そうすればすべてはよくなるでしょう。すべての責任を神に投げ出しなさい。自分一人で重荷に耐えようとしてはいけません。神に任せるなら、いったい運命に何ができるというのでしょう?

質問者 明け渡しは不可能です。

マハルシ そうです。はじめのうちから完全な明け渡しは不可能です。部分的な明け渡しなら確かに誰にとっても可能でしょう。時とともに、それは完全な明け渡しへと導かれていくのです。

もし明け渡しが不可能なら、何ができるというのでしょう? それでは心の平安はなく、あなたにはどうすることもできないでしょう。ただ明け渡しによってのみ、それができるのです。

質問者 部分的な明け渡し……それで運命は取り消せるのでしょうか?

マハルシ ええ、もちろんです! それは可能です。

質問者 運命は過去のカルマによるものではありませんか?

マハルシ もし神に明け渡したなら、神が面倒を見るでしょう。

質問者 それが神の定めであるなら、どうやって神はそれを取り消すというのでしょう?マハルシ すべては神の中にのみ在るのです。

悲しみと悪 

質問者 いったいどうしてこの世界は悲しみと邪悪に満ちているのでしょうか?

マハルシ 神の意志によってです!

質問者 なぜ神はそう望まれたのでしょうか?

マハルシ それは計り知ることのできないものなのです。どんな動機も神の力には属しません。欲望も、成し遂げようとする目的も、無限の一者、全知全能の存在は主張しません。神は彼の存在のなかで起こる現象とは無縁です。太陽と世界の現象を比べてみなさい。多者(世界)となる前に、一者(神)に現象の動機や責任を負わせることは意味がないのです。

しかしすでに決められた出来事の流れを神の意思に負わせるのは、自由意志問題の解決方法としては都合のいいことでしょう。もし何が起こり、何に関わり合い、何を避けるかについて、満足のいかない不安に心が揺れ動いているなら、そのときは責任と自由意志の感覚を棄て去り、全知全能の神に定められた道具として、行為しようと苦しもうと、彼の望むがままに任せることが賢明でしょう。彼はすべての重荷を負い、私たちに平和を与えてくれるのです。

帰依と明け渡し 

シヴァ神のヴィジョンをもっと度々得たいと願って、祈りを捧げていた女性にバガヴァーンは言った。

マハルシ 神がその姿を現そうと消え去ろうと、彼の御心にしたがい、すべてを明け渡しなさい。神のはからいにまかせなさい。もしあなたの希望に沿うように神に頼むとしたら、それは明け渡しではなく命令です。神をあなたに従わせておきながら、自分は明け渡したと考えることはできません。神は何が最善であり、いつ、どのようにするべきかを知っています。彼にすべてを完全にまかせなさい。重荷は彼のものです。あなたはもはや何の心配もしなくていい。あなたの心配はみな彼のものなのです。明け渡しとはそのようなものです。これがバクティです。

Sri Bhagavan at Skandashram
Sri Bhagavan at Skandashram

神の恩寵 

神はすべての人のハートの中で真我として輝いています。善人であれ悪人であれ、恩寵の力は誰一人除外しません。探究者は静かな落ち着いた心で困難や苦悩を克服しなければなりません。困難や苦悩は神の恩寵によって起こると確信することが、心に静寂を与えるのです。

礼拝

自分自身を身体だと感じている人にとって、神を無形のものとして礼拝することは不可能です。何であれ彼が礼拝するものは、姿形を持ったものとなるのです。

成功と失敗 

 たとえ自分の行為が成功をもたらしたとしても、「これは私の仕事で達成したのだ」と考えて得意になってはいけません。その反対に、神が寛大であることを確信しなさい。望んでいた成功が得られなかったとしても、自分の行為が実を結ばなかったと考えるべきではありません。それらの結果がもたらすのは、「行為は神の恩寵によって成功するのであって、単なる人間の努力によってではない」という理解なのです。

誤った行為をした後で、利己心からそれを隠くすべきではありません。これからは正しく行為しようと決意して、過ちを避けるべきです。

成功と失敗は運命によるものであって、意志の力があるかないかという問題ではありません。どんな状況でも心の平静とバランスを保つようにしなさい。それが意志の力です。現世的な地位にあったとしても、他の人から羨ましがられるよりは、同情されるほうがいいのです。

 

Sri Bhagavan sitting in Old Hall
Sri Bhagavan sitting in Old Hall

幸福な人生の秘密 

もし他の人の欠点を見過ごして、ただ長所だけを見るなら、心は静かで穏やかになるでしょう。こうすれば、全人生が幸福になるのです。

あらゆる物事に関わらず、心を静めて、欲望もなく、憎しみも抱かない人は素晴らしい探究者です。

 

 

敵に体する態度 

敵が憎んでいるのは自我です。探究者が殺したいと思っているのも、その自我です。鉄床を叩く金細工の職人のように、敵は、実は友なのです。

 

夢の中で恩寵を受ける 

私たちはある体験を夢と呼び、別の体験を目覚めの体験と呼びます。実在の見地からすれば、どちらの体験も偽り(非実在)です。ある人が夢の中で恩寵を受けたとします。そして、その夢が彼の全人生にもたらした影響力が計り知れず、深遠で、しかもずっと続くものなら、それを偽りだと言うことはできません。一方、目覚めの状態で、現実に起こった些細な出来事は、一時的で、何の意味もなく、すぐに忘れ去られてしまうのです。

 

丘で起こった第二の死の体験 

マハルシ 私はこれまで学識ある人が「生理学は別のことを教えている」と反論したにもかかわらず、ハート・センターは右側にあると語り続けてきました。私は体験から語っています。そのことは、私がマドゥライの家で超越状態になったときから知っていました。それから、『真我実現』(マハルシ最初期の伝記)という本に述べられている出来事においても、私は非常にはっきりとしたヴィジョンと体験を得ています。

まったく突然一方から光が現れ、私を包み込みながら世界の視野をかき消していったのです。最後には世界の視野は完全に消え去り、光がすべてを覆い尽くしました。私は左側にある心臓の筋肉器官が活動を停止したことを感じ、血液循環が止まり、身体が青ざめて動かなくなったので死体になったのだと理解しました。ヴァスデーヴァ・シャーストリは私の体を抱きしめると、私が死んだと言って泣き始めました。しかし私は話すことができませんでした。この間、私はずっと右側のハート・センターが今までどおり働いているのを感じていたのです。この状態は十五分から二十分続きました。するとロケットが発射するかのように、何かが突然身体の右側から左側へと発射されたのです。こうして血液循環は回復し、通常の状態に戻ったのでした。私はヴァスデーヴァ・シャーストリに付き添って歩いてもらうように頼みました。こうして私たちはヴィルーパークシャ洞窟に戻ったのです。